丁寧に生きる
10月22日に母が亡くなりました。
93歳でした。
2月に心不全で入院し2週間で退院して来ました。
その後、3月から埼玉の私の家に呼んで一緒に暮らしていました。
心不全は心臓の状態が良くなくなって、十分な血液を送り出せなくなる状態と言われています。
母は大動脈弁狭窄とのことでした。
心臓の一番大きな弁が硬化していて狭くなっていました。
その状態だと血液が送れなくなるので、血圧を上げて血液を送っていたようです。
結果、心臓の周りの肺に水が溜まって苦しくなりました。
その時は利尿剤で水はすぐに抜け状態は落ち着きました。
心臓弁の手術の可能性もありましたが、手術の心配の方が勝って手術はしませんでした。
母の場合はそれで良かったと思っています。
元々、脚がそれほど強くなかった事もあり、入院後は歩行器(手押し車)を使って歩いていました。
私の家に来てからは、毎朝、200メートルくらい先のお稲荷さんまで、一緒に歩くのが日課になりました。
「ふう、今日も来れた。ありがとう。」
そんな事を言いながら、休み休み歩いていました。
食事は3食。
夏くらいから硬く大きなものは食べられませんでしたが、細かくして柔らかくしたものを食べていました。
昼間にはお菓子をぽりぽり食べたり、アイスやプリンなども毎日のように食していました。
トータルでカロリーや栄養を充足させていたんだと思います。
「食べるの好きやもん」というのが口癖で。
同じように「おいしいね。おいしね。」というのも口癖でした。
毎日、数独クイズをやっていました。
ボケたくないといつも言っていました。
夏以降は寝ている時間や回数が増えたため、時間感覚が少しおかしくなりましたが、最後まで普通に話をしていました。
母は無理をしないように生きていたように思います。
食べる物も無理には食べず、食べたい時には食べ、間食も食べたくなったら食べていました。
散歩についても同じで、無理をせず、でも歩く方が良いなぁとの思いもあって、毎日少しずつ歩いていました。
90歳くらいまではコーラスに行き、俳句の会にも入っていました。
絵を描くのも趣味で、葉書や便箋にトンボや富士山や干支の絵を書いては、手紙を書いていました。
自転車には80代後半まで乗っていましたが、転んだら大変だと自分でやめました。
丁寧に丁寧に。
一つ一つの事を自分の体と相談しながらやっていたように思います。
無理はしない。
だけど、やらなきゃいけない事は出来るだけ工夫してやる。
そうやって、自分の持っているモノを最後まで全部使い切った一生だったと思います。
少なくなってはいましたが前日まで三食食べ、散歩にも行き、トイレにも自分で立って行きました。
お風呂にも手伝ってはいましたが、自分で入っていました。
亡くなる前の日は一緒に散歩し、少なくなっていましたが、一緒に食事もしました。
前日の夜にはビデオ通話で、明日帰る旨を伝え、頑張るわね!と笑顔をくれました。
亡くなる日の朝は、体が動かないと声に出して訴え、救急車を呼ぶのにも頷いていました。
入院のことを考えてか、入れ歯を入れてと妻に頼んで、準備をして行きました。
病院では駆けつけた娘と私の嫁とも話をし(私は出張中で駆けつけている途中)、午後からの入院の準備をするからと別れて来ました。
13:30くらいに看護師さんをナースコールで呼び、水が飲みたいと飲ませてもらいました。
その後しばらくして、心臓が止まったようです。
看護師さんも慌てていました。
こう書くと突然死のように聞こえるかもしれませんが、春から夏、夏から秋にかけて、少しずつ出来ない事が増え、出来ている事も少しずつ大変になって来ていました。
体全部が少しずつ終わりに向かっていたんだと思います。
病名は心不全ですが、老衰のような天寿を全うしたんだと思っています。
丁寧に生きる。
本当にそんな人生だったと思います。
良い人生だったんだなと思います。
母雪枝は令和六年十月二十二日に永眠しました。
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