311から14年
2011年3月11日
名古屋での仕事を終えて東京に戻って来て、大泉学園の駅で電車から降りてホームに足が着くか着かないかの時に、グラグラグラグラっと地面が揺れました。
地面というかホームというか柱も駅舎も揺れて、電車から降りた乗客の数人は柱や壁につかまったりしていました。
ゆらゆらしたホームで暫く呆然とした後、階段を登って改札を出て、整体院のあるマンションまで歩いて戻りました。
大きな揺れだったというのは、ビルというビルから人が外に出て来ていたのでも分かりました。
こんな揺れは始めただなぁ。
マンションに戻って部屋に入ると、ブラウン管テレビが台から落ちていて、本が何冊か倒れていました。
線路脇のマンションでしたが、電車の走る音がしないのが、おかしいなと思い始めたのは1時間くらい経ってからだったと思います。
自宅が気になったので、自転車で向かうと、道路の脇にある2階建てのアパートや4階建てのマンションが、建物自体がギシギシ音を立てていました。
まだ揺れてるんだ。
自宅に帰ると、息子と奥さんがいて、大きかったねぇ初めて家の外に出たというような事を言っていました。
3日後に入学手続きのために札幌に行くため、自宅で準備をしている最中でした。
この日、名古屋からの新幹線は席を予約していましたが、早く仕事が終わって1時間くらい早めに名古屋を出ていました。
後から思うと、予約通りに帰って来ていたら、地下鉄の中で地震にあったんだろうと思います。
その後、福島で原発事故が起きた。
関東の電気を福島の原発で作っているのを知らず、結果的に福島の人にだけ大変な事を押し付けている。
ずっとその事が心に残っています。
罪滅ぼしという気持ちもあって、仮設住宅に整体(クラニオ)のボランティアに行きました。
半年目、1年目、一年半経ってからの三度です。
半年毎に行くと仮設に住んでいる人たちの体はどんどん変わって行きました。
悲しみが怒りになり諦めになったような気分がありました。
仮設住宅に1年半というのは、どういう事なんだろうと思いましたが、震災の大きさを考えると、なんとも言えない気分になります。
チャリティセミナーをやって寄付もしたりしましたが、それもこれも、自分が何も知らず福島の人に面倒(原発)を押し付けていたという後ろめたさからだったように思います。
14年経ちました。
福島には除染土が残っています。
1年目にボランティアに行った時に、宿泊した施設の一階に仮設されていた双葉町の町役場のことを思い出します。
まだ帰宅困難状態が続いています。
何にも出来ないんですけど、忘れないようにしています。
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