「身体」を忘れた日本人
「身体」を忘れた日本人
養老孟司先生とCWニコルさんの対談本です。
文庫本になっていた本を読みました。
もう10年以上前に出版されたものだと思います。
ニコルさんは他界されてしまいましたが、養老先生は今もお元気でいらっしゃいます。
日本人が身体性を忘れてしまった、という話を正面から話しているという訳ではありません。
養老先生とニコルさんの話を聞いていると、日本人が身体から離れてしまっている、その事で本当に大きな変化が起きているという事が炙り出されているように思います。
整体師をしていて、それは本当に良く分かります。
頭で考えるというか、体の感覚よりも情報の方が優先していて、行動を情報でコントロールしてばかりいる、と思います。
頭で考えたり情報を整理して対応する事が悪いのではなく、そればっかりになって身体がなくなってしまっているという印象です。
お腹が空いたから食べるのではなく、時間が来たから食べる。
食べたいものではなく、必要なものを摂取する。
疲れても働いたり、疲れているのに気がつかなかったり。
もう少し身体に戻れと思います。
もう少し自分と共に生きればと思います。
齟齬は長い時間をかけて、体と心を乖離させます。
少しずつなので変化や負担は分かりません。
外に出て風を感じて歩いて見て下さい。
音を聞いて下さい。
地面に触れて下さい。
歩いて見て段差や湿度を感じて下さい。
自分を感じるには、今は自分を感じる練習が必要です。
少しの時間で良いので、時間がとれたらなぁと思います。
宿題をやっておく
開高健さんの「夏の闇」を読みました。
もう何度か読みましたが、何度読んでも素晴らしい。
重厚で重層で深淵かつ軽妙。
そして圧倒的な文章。
あとがきをCWニコルさんが書いていました。
そこに気になる一節があります。
彼(開高健さん)は宿題をやって来た男だ。
という一節。
正確ではないかもしれませんが、「宿題」という言葉を使ってこういう趣旨のことを言っておられました。
耳が痛い。
何にでも当てはまる事だと思います。
例えば何かを書くとき、そのものを表現する時、それがどういうモノなのか、歴史や来歴や周辺情報や他に書かれた文章まで頭に入っていて、自分の身になっている状態で書く。
事前に何も学ばず知らずに書くのとは、言葉の表す深みが全く違うものになるというような意味でしょう。
そして、その情景を表す時に、ソレを表現に使うことに既に意味がある。
開高さんの文章はそんな文章なんだろうと思います。
宿題をあまりしていない自分には、文章からだけ受け取る部分が大きいと思いますが、それでも背後にある事を思う時があります。
何にも通じる事だろうと思います。
宿題はきちんとしておく事だろうと思います。